【ネタバレ注意】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は歴史的駄作か、誤解された傑作か?観客を「裏切る」衝撃のラストを徹底考察
「いろはとあさきの父」がお届けする映画レビュー。2024年10月24日、全世界が注目した問題作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を字幕版で鑑賞してきました。2019年に社会現象を巻き起こした前作から5年。ホアキン・フェニックスとレディー・ガガという豪華キャストを迎え、製作費2億ドルを投じた超大作の結末は、あまりにも残酷で、そして挑発的なものでした。
熱狂から拒絶へ。一体何が起きたのか?
公開直後から聞こえてきたのは、批評家と観客双方からの激しい拒絶反応。興行的にも歴史的な苦戦を強いられている本作は、一体何を描き、なぜこれほどまでに嫌われたのでしょうか。そして、トッド・フィリップス監督が仕掛けた「ジョーカー神話」の破壊とは?
この記事で、映画の深層を解き明かす!
この記事では、映画の核心部分であるラストシーンのネタバレを含みつつ、ミュージカル要素の是非や、アーサー・フレックというキャラクターが辿った運命について、徹底的に考察します。まだ観ていない方はご注意ください。これは、単なる映画レビューではなく、現代社会と映画の関係性を問う分析レポートです。
歴史的な「拒絶」。数字が語る大惨敗
まず衝撃的なのは、その評価の低さです。米国の観客満足度調査「CinemaScore」では、アメコミ映画史上最低となる「D」評価を記録。Rotten Tomatoesでも批評家・観客ともに支持率は30%台に低迷しています。前作が観客スコア89%を叩き出したことを考えれば、これは異常事態です。
製作費は前作の4倍近い約2億ドルに膨れ上がりましたが、興行収入は公開2週目で歴史的な急落を見せ、製作費の回収すら危ぶまれる状況。日本ではIMAXなどの映像体験を評価する声もありますが、それでも前作からの「梯子外し」に戸惑う観客が少なくありません。
歌わないミュージカル、進まない法廷劇
本作の最大の特徴であり、批判の的となったのが「ミュージカル」要素です。しかし、ここで歌われるスタンダード・ナンバーは、観客を楽しませるためではなく、アーサーの内面世界の発露として機能しています。そのため、歌声は意図的に掠れ、音程が外れていることも。これを「リアリティ」と捉えるか、「不快」と捉えるかで評価は分かれます。
レディー・ガガ演じるリー・クインゼルも、その圧倒的な歌唱力を封印し、アーサーに合わせた「不完全な歌」を披露。さらに物語の大部分は閉鎖的な法廷と独房で展開され、「前作の蒸し返し」に終始するため、映画としてのカタルシスやスペクタクルを期待した層を大きく失望させました。
【ネタバレ】アーサー・フレックの死と「ジョーカー」の継承
物語の結末、アーサーは法廷で「ジョーカーなどいない。いるのは私だけだ」と告白します。これは、彼を反体制のカリスマとして崇めていた劇中の信奉者、そして前作に熱狂した観客に対する強烈な裏切りです。
そしてラストシーン。アーカムに戻されたアーサーは、若い囚人に腹部を刺され、無残に命を落とします。その囚人は狂ったように笑いながら自らの口を切り裂き、「グラスゴー・スマイル」を作る…。この衝撃的な結末は、アーサー・フレックは「本物のジョーカー」ではなく、単なるきっかけに過ぎなかったという残酷な事実を突きつけます。これは監督による、誤った偶像崇拝への拒絶であり、インセル文化への決別宣言とも受け取れます。
観客への「報復」か、それとも「パンク」な傑作か
この映画を「史上最悪の映画」と酷評する声がある一方で、商業的成功を捨ててまで自らの神話を破壊した監督の姿勢を「パンク」で芸術的だと評価する声もあります。
特に興味深いのは、レディー・ガガ演じるリー・クインゼルの役割です。彼女はアーサー個人ではなく「ジョーカーという偶像」のみを愛する存在として描かれました。アーサーが素顔をさらけ出した途端に彼を見捨てる彼女の姿は、勝手なイメージを押し付け、飽きれば使い捨てる現代の「有害なファン(Toxic Fandom)」そのものです。
まとめ:『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は現代の「アンチ・ブロックバスター」だ
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、観客が求めていた「ジョーカーの続編」ではありませんでした。カタルシスはなく、ヒーローもヴィランも不在。しかし、アーサー・フレックという一人の男が、社会や観客によって「ジョーカー」に仕立て上げられ、消費され、捨て去られる様を描き切った点において、本作は極めて現代的で皮肉に満ちた作品です。
その評価が「駄作」で終わるか、数年後に「誤解された傑作」として復権するかはわかりません。ただ一つ確かなのは、この映画が突きつけた不快感と問いかけは、安易な感動よりも長く、私たちの記憶に棘のように残り続けるだろうということです。



